はじめの一歩

大学生になりました。自己を見つめる、周りを見つめる、そして思ったことを言葉にする一歩目のとして始めました。

ポジティブな諦め

こんにちは。ゆいとです。
今日も一日お疲れ様です。

 

一昨日Facebookに投稿したんですけど、改めて考えてみようってことで書いてみます。
【直撃取材】LGBTQ「隠して生きて」幸福実現党市議発言に怒りの声 市議「差別する意図はない」 (msn.com)

 

このブログを初期の頃から読んでいる方は分かるかもしれませんが、僕は当事者意識みたいなのがあるので、目を背けられなかったという背景が前提としてあります。

 

なんとまあ驚くべきは、この発言があったのが隣町だってこと。
正直言ってガッカリしているし、「何言ってんのこの人」みたいな怒りも多少あるけれど、Facebookのほうにも書いたようにどこか諦めてもいますよと。

 

問題は大きく2つあると思っていて
1つ目がクローズアップされてますけど、「静かに生きて」って言ってること。
シンプルになぜ自分自身を隠さないといけないのか。
なぜ自分らしく生きたらいけないのか。
(もちろん、誰にも言わずに生きてもいいんすけどね。)
生き方の選択肢が絞られるのはアンフェアだと思うし、「隠す」ことを生涯続けることになってしまったら、その人の一生はとても苦しくなってしまうと思う。

 

2つ目は自分で「寛容です」って言っちゃってること。
シンプルにそれは周りが判断することだと思う。
静かに生きてって言える時点で寛容ではないし。
理解がある、寛容である、っていうのは誰でも思ってなくても言えちゃうこと。
その人の思想は行動や言動からにじみ出ますからね。

 

でも、みんながみんな理解するとも思っていないんですよね。
マジョリティに対して
「権利を認めろ」「理解しろ」って強制してしまったら、それもそれで平等性に欠けてるじゃないか、と。
権利を訴えながら、「理解できない」という人の表現の自由の権利を奪ってしまっているじゃないですか。
だから、よく思わない人一定数いると割り切って、そういう考え方もあるよね、と考えるようにしています。

 

皆さんはどう思いますか?
人によってはリアリティのない話かもしれないけど、考えてみてください。

 


ここからは余談。

僕は、公にカミングアウト的なことをすることはしません。
機会があれば、話したいと自分が思う人ならば話す、というスタンスにしています。
まだ腫れ物に触るように取り上げられる世の中なので、その時点でノーマルにはなっていないですからね。

 

では!