はじめの一歩

大学生になりました。自己を見つめる、周りを見つめる、そして思ったことを言葉にする一歩目のとして始めました。

社会人生活2週終了

社会人生活がスタートして2週が経過しました。
まだ研修中(5月末まで)のため、仕事をしているというよりか
仕事をするために必要な知識や技術の
インプット、アウトプットを繰り返している状態。

有難いことに
研修期間でも給料を頂けるようで、とりあえずは生きていけそうな感じ。

成果を残しているわけでもない研修期間の給料は
会社からの期待と信用だと思っておこう。

そう思うと、何も技術のない新卒だとしても
お金を貰って働いているという意識はすごく大事だ。

 


就職活動のとき
よく「人と比べない方がいい」と聞いた。
本当にそうだと思うし、自分が納得するかどうかが大事だと
自分自身思っていた。

だが新たな生活が始まってみると
みんな驚くほどに比較をしている。

同期のあの人には○○ができて、自分はできていない
とか
あの先輩みたいになれるのかな
とか

 

前者に関してはまだ分かるけど
後者は一体何なのだろうか。

経験値がまるで違う先輩と比較して、自分には何が足りてないとか
これから身に着けていけばいい話じゃんか。

 

今こそ本当に比較をしちゃいけないと思う。

自分が覚えるべきことや、やるべきことに集中するだけだ。
あれもこれもじゃなくて、一つずつだ。

なぜ力をつけるのかと考えれば、自分たちの顧客のためだ。
上司に褒めてもらうためじゃない。

その辺の感じが
先生に好かれるため勉強しているような学校教育を思い起こさせた。

僕たちが人と比較してしまうのはなぜなんだろうか。
よりよくありたいと思ったとき
自分ではなく他人を選んでしまうのはなぜなんだろうか。

研修を受けながらこんなことを思った。

 

大きな変化の中で

今日は2024年3月31日。明日は2024年4月1日。

2023年度が終わり、2024年度が始まる。

僕は社会人になる。

 

自分が想像もつかなかった環境下での大学生活だった。
そんな大学生活を経て、僕が明日から働かせてもらう会社は
就活開始当時知りもしなかった業界の会社だ。
そして、会社になるべく近いよう、離れる気がなかった地元を離れ、1人暮らしをしている。

自分が高校卒業時に考えていた未来とは大きく異なっているだろう。
変わらないとすれば、定期的に必ず遊ぶ友だちだろうか。

思い描いていたものとは違うかもしれないが、だからといってそれが不満なわけでも
不幸だと感じているわけでもない。
むしろ僕は今とても幸せ。

それは大きな変化の中で、1つ感じたことがあるからだ。

それが
自分には沢山味方がいて、支えてくれているということ。

引っ越しをする前に沢山の人と会ったり、遊んだりした。
その時にほとんどの人が「疲れたらいつでも来い!」と言ってくれた。

いざ引っ越しをするときは、毎日異なる友だちや家族が来て手伝ってくれた。
嫌な顔ひとつせず、長い時間付き合ってくれた。

引っ越しをしたらしたで、気にかけて連絡をくれたり、遊びに誘ってくれる人がいた。

 

味方が沢山いるとは前から思っていたけど
今回で確信に変わって、愛をダイレクトに感じた。

 

 

新しい生活にもちろん不安はあるけど、最近読んだ本の中にこんな一節があった。

”不安の79%は起こらず、残りの21%のうち
16%は対策をすれば防げることで、残りの5%は自分じゃどうにもならないこと。”

これを読んでからすごく心が軽くなって、今に集中し、できることをやろうというマインドになれている。

 

人生設計はある程度必要だろう。
でも、その通りにいくことなんてあるのだろうか?
その時々で見るものも、感じるものも変わる。
その変化が人生そのものなんじゃないかとこの頃思う。
変わらぬ芯を持ちつつ、変化もしていきたいものだ。

 

かっこいい社会人になろう。

 

 

 

 

道は続く

2月29日 カゼトツチを卒業する。
関わり始めたのが大学2年の9月だから、約2年半お世話になった。

 

数字で見ると「おー長かったな」って思うけど
体感は全くそんなことがなく、「あ、そんなに経ってた!?」っていうのが本音。
振り返ったら意外と遠くまで来たものだ、みたいな。

それは目の前に全力で向き合ってきた証なのだろうか。

 

この2年半、自分の中で大事にしていたことが2つある。

  1. 頼まれたことを断らない
  2. 歩みを止めない

まず、1つめの「頼まれたことを断らない」について。

理由は簡単で、体験したこと全て自分の力になると思ったからだ。
自分にできるかどうかの可能性で考えるのではなく、とりあえずやってみる。

それが自分に合ってるかどうかなんて、やってみないと分からない。
あとは、関わり始めた当時自分には何もなかったので
そのやり方しかないとまで思っていた。

結果、それは自分にとっていい選択で
タイピングがそこそこ早くなったり、デザインをある程度作れるようになったり
インスタの投稿が10分あればできるようになったり、コミュ力がついた等々
やったおかげで身についたことが沢山あった。

 

そして、2つめの「歩みを止めない」について。

逃げ出したくても、頭に何も浮かばなくても、半歩でもいいから進むようにした。
何事にも近道はないと今も思っている。
それに、歩みを止めた自分には何もないと本気で思っていた。
だからちょっとでもいいから進むようにしていた。

そのおかげかどうかは分からないけど、大きな仕事を任せてもらえるようになった。

 

自分が何を残せたか、どれほど貢献できたかは分からない。
なぜなら、僕だけの力でできたことなんてないし
物事の価値なんて他人が決めるものだ。

でも、大好きで尊敬する2人の役に立ちたい一心で動いてきた自分に自分で価値を感じているし、やってよかったと心から思う。
今はただただ感謝と、役に立てていることを切に願うばかりだ。

 

こうして少しだけ振り返ったとき
悔しいことやつらかったことはもちろんあるし
もっとできたなと思うことも全然ある。

でも、僕はこの期間のことにすごく満足しているし
関わってくれた人たちや環境に恵まれたことに感謝の気持ちでいっぱいだ。

これから僕が歩む道は、どんなものかは未知数だ。
確かな事と言えば、僕が見る景色や歩む道は僕自身の選択の積み重ねであり
僕の人生を写す鏡であるということだ。

 

新たな地でまた歩みを続け
ふと振り返ったとき「遠くまできたものだ」と思えるように
僕は僕の足で、その確かな一歩を歩む。

美しい景色を見るために。

 

2023年10月4日

去る10月4日の朝

母方の祖母が亡くなりました。

 

40年以上公務員として勤め上げ

退職後のおよそ20年もの間、癌と戦いました。

治ったと思ったら再発、今度こそ大丈夫と思ったら転移の繰り返しでした。

 

そんな中でも、いろんな趣味を楽しみ

年に一度親族を旅行に連れていってくれたり

僕たち孫には明るい姿だけを見せてくれていました。

 

コロナ禍になって

大好きなお出かけができなくなったところから

祖母は元気をなくしていきました。

 

そして今年のお盆辺りから急激に弱り始め

数週間から数ヶ月と余命宣告を受けました。

8月は家族で介護しながらの生活を続け

その後9月の上旬に入院し、約1ヶ月で祖母は旅立ちました。

 

この1ヶ月半は、僕たち家族にとって大きな時間だったと思います。

時間を作って祖母に会いに行ったり

今まで伝えられていなかったことを伝えたり

できることをやりました。

 

そして祖母も会う人会う人に

「ありがとう」と最期まで言い続けました。

 

本人が望んでいた最期を迎えることができたなら、もう何も言うことはないのかなと思っています。

 

 

また祖母は

誰かが困っていれば助け

誰かが倒れたらすぐに駆けつけるような人でした。

それが巡ってきたのか、祖母の病室には毎日必ず家族の誰かがいて、週末には遠い親戚や友人が駆けつける賑やかな部屋でした。

 

恩は巡ることを身に沁みて感じた出来事でした。

 

 

 

僕個人は、何度か進路のことで意見が食い違い

他の孫ほど会話は多くなかったと思います。

 

あの時は理解できなかったけど

愛情があったからこそ僕に何かを伝えようとしてくれていたのだと今になると分かります。

 

おばあちゃん、ありがとう。

そしてお疲れ様でした。

どうかゆっくり休んでほしい。

2023年8月19日

翔が旅立ってから今日で4年。

 

翔が見た景色を見たくて、現地に行ってきた。
車から降りたと同時に優しい風が吹いて、きっと近くにいてくれるのだと思った。

一緒に出向いた友人が交差点を見つめながら
「人生って難しいね」と言った。
1分1秒違っていたら、また変わった未来だったのかと思うと難しいと続けた。

言ってもキリがないなんて分かり切っている。
だけど、これも翔が教えてくれたことの1つだと思ってる。

1秒先何が起こるかなんてわからなくて、そのくらい一瞬の積み重ねで
日々が続いていること。
目の前の人や出来事も当たり前にあることじゃない。
だから大切にしなきゃいけないんだということを教えてくれた。

 

あの日から時間は確実に流れ
4年前高校生だった僕は来年社会人になる。

 

この4年の間、翔を忘れた日はない。きっとそれはこれからも続く。

自分にも必ず来る最期のときに「幸せだった」と思えるように。

そして、翔のように
姿や形が見えなくなっても愛される存在になれるように。

 

またどこがで会えることを信じて。

ヒップホップ/ラップがカッコいいわけ

こんにちは。ゆいとです。

今日も1日お疲れ様です。

 

タイトルにもあるように

ヒップホップやラップをなぜ自分がかっこいいと思うのか?を考えた時に

生きかたのヒントになることがあるんじゃないかと思ってこれを書いています。

 

僕は高校2年くらいから日本人のラッパーの曲を聴くようになって、そこからずっと聴いています。

中学まではエミネムとか、Jay-zとかは聴くけど

何言ってるかわかんないまま、とりあえずノリがカッコいいからというだけでした。笑

 

ヒップホップ/ラップ

というより

ラッパーがカッコよく見えるのは

ざっくりまとめると4つあると思っていて。

1つ目は「ありのまま」をカッコよく伝える所

2つ目は自分に起きた事を受け止めて、昇華しようとしてる所

3つ目は口で言ってる事と行動が一致してる所

4つ目は自分に正直、仲間を大事にする、口にしたことはやる、他人の前に自分のことをする、と言った基本的な事ができている所

 

 

1つ目

ありのままを伝えられる人って限られてるじゃないですか。でも、そこのどう曝け出すか?で競っている所が、ありのままを曝け出せなかった自分には衝撃でカッコよく見えたんですよね。

 

2つ目

僕が聴いてるラッパーは

パートナーや仲間を亡くしていたり

複雑な家庭環境だった過去があったり

人として堕ちるとこまで堕ちたことがあったりする人がいたりするんですけど

過去を受けとめて

自分の努力とスキルで這い上がってくる

みたいな。

事実を恨むんじゃなくて、糧として自分のパワーとしていることが強烈にインパクトがありましたね。

 

3つ目

次はどこでライブする

自分がヒップホップ界を引っ張る、女王になる

みたいな宣言をして、曲の中でも歌っていたりするラッパーがいます。

それを本当に達成するんですよ。

ヒップホップ界をリードして、フェスでは大トリを飾るようになる。

自分でサクセスストーリーを作っていく強さ

覚悟の重さにめっちゃ惹かれますよね。

 

4つ目

これは自分も忘れたくないというか

不変的にこうありたいという姿ですね。

口出しする前に自分を律し、自分で決めた事はやりきる。

そして尊敬できる友だちを大事にする。

これは子どもにも教えたいかも。

 

というわけでつらつらと書いてきましたが

ヒップホップ、ラップのかっこよさを熱弁させてもらいました。

ただお酒飲んでるだけとか、ワイワイ騒いでるだけじゃないので、ぜひ聴いてみてくださいね。

消費者視点の弊害

こんにちは。ゆいとです。
今日も一日お疲れ様です。

 

先週から学生最後の夏休みに入りました。
が、初っ端から熱中症になってしまい、熱は出るわ、蕁麻疹も出るわで
大変でした。

今は蕁麻疹以外は完全復活しております。

 

さて、いきなりですが
最近のぼくの悩み?というかフラストレーションになっていることがありまして。

ずばり消費者的思考の人が多すぎること。
結論、人やモノにケチつける前に自分のことに集中しようよって言いたいんですよ。

 

資本主義も行きつくところまできて、サービスが良質になっていっているからこそ生まれてくるものだと思うのですが
「やってもらって当然」
「こうしてほしい」「ああしてほしい」
などなど

自分で少し動けばできそうなことも、少し気遣いがあれば解決しそうなことも
なんか人やモノやサービスのせいにして、”ない”ことばかりに着目していないかと。
いつまでも”もらう側”でいるのってダサくないすか。

あとこれは消費者的思考からはずれるかもしれないけど
人の一挙手一投足にケチつけたり、求められてもないのに
「ああした方がいいよ」「こうした方がいいよ」とか
口出しするのに自分ができていないとか、ホントにダサすぎ。

 

お前がやれば?って話なわけで。

いつまで消費者だけでいるのか
生産者になることはないのか?


やらなきゃいけないこと、その人にしかできないこと
必ずあるはずだと思っています。

 

ずっと”もらう側”ではなく、”与える側”になっていこうよと思う次第です。

これは愚痴を吐きつつも、自分への戒めにもします。