はじめの一歩

大学生になりました。自己を見つめる、周りを見つめる、そして思ったことを言葉にする一歩目のとして始めました。

5年が経った事件

こんにちは。ゆいとです。

今日も一日お疲れ様です。

 

 

 

昨日7月26日は

津久井やまゆり園事件が起きた日でした。

5年経ったそうです。

昨日の記事を書き終えた後に、関連記事を読みました。

 

 

殺人事件として戦後最悪の犠牲者を生んだこの事件。記憶に残ってる方も多いのではないでしょうか。

この事件に関する記事などを色々読んでみたのですが、読むにつれて心苦しくなるのが自分でもわかりました。

どうやって表現していいのか分からない気持ちになりました。

 

 

5年経った今、大々的に報じられることも減ってきました。

だけど、これは社会が向き合うべき問題だと思うのです。

 

社会にとって有益かそうでないか

という間違った価値観がこの事件を生んだと僕は思っています。

こういうのを優生思想というらしいです。

 

 

僕らは学校で

順位や成績をつけられて

いい順位を取ることはいいこと

いい成績を取るのはいいこと

悪い順位を取るのは悪いこと

悪い成績を取るのは悪いこと

というように、いつのまにか優劣の思考になってしまう。

もしかしたら、学校に加えて

親だったり家族がその優劣思考にあると

より優生思想になる危険度は高まっていくと思います。

 

世の中にとって有益かそうでないかなんていう基準はそもそも間違ってる。

それに自分以外の人を、有益か無益か裁くことなんてできないはず。

他人を裁けるほど、人間は偉いのか?

そんなわけない。

何様なのか?

 

 

 

僕らは人に価値付けられるほど偉くない。

だけど、価値を感じてもらう働きかけはできるはず。

 

僕は自分に価値を感じられなかったことが何回もあります。生きていて、誰も幸せにできないんじゃないかと本気で思ってた。

だけど、友人とか色んな人が

「出会ってくれてありがとう」とか

「いつもありがとう」って言ってくれた事で

僕は自分に価値を感じられました。

 

 

次の世代で、こんな悲惨な事件を起こさない為に、一人一人に価値があるんだよって事を

お互いに伝えていくしかないんじゃないか。

言葉で意思疎通が図れないなら

動きだったり、行為で伝えればいいんじゃないか。

あなたには価値があるよ、というのを伝えていけば優生思想になんてならないんじゃないか。

人を何かの優劣で判断しようとなんて、思わなくなるんじゃないか。

 

 

 

繰り返しになるけど

人を裁けるほど人間は偉くないよ…

 

 

 

 

では。